『新橋烏森口青春篇』

目黒それでは次は『新橋烏森口青春篇』。小説新潮に連載して、1987年12月に新潮社から刊行、1991年5月に新潮文庫に入った。これは今でも面白い。椎名が書いているシリーズものの一篇で、このあと、『銀座のカラス』になって、『本の雑誌血風録』と続いていく。ここでは百貨店ニュース社となっているけど、おれは銀座八丁目に引っ越してからこの会社に入ったんで、新橋烏森口にあったときのことは知らないんだ。だから、ここに出てくる森川はあの人だよなとわかるんだけど、モデルがわからない人が結構いる。これ、実在の人をそのままモデルにしただけではなく、2人を合成したとかある?

椎名ええと、よく覚えていない(笑)。

目黒ここでは椎名と木村と沢野が実名で登場するけど、あとは仮名だよね。この次の『銀座のカラス』では、椎名以外も菊池や菊入や子安などが実名で出てくるのに、どうしてこの『新橋烏森口青春篇』では仮名が多いの?

椎名それも、覚えていません(笑)。

目黒まったく覚えていないの?

椎名全部実名にしちゃうとまずいんじゃないかって思ったんじゃないかなあ。実録小説っていうの、こういうの? それを初めて書いたから、まだよくわかっていなかった。

目黒初めてじゃないでしょ。だって『わしらは怪しい探検隊』は実録小説だろ。あれ、全部実名だぜ。

椎名そうかあ。

目黒(笑)。ま、いいや。新潮文庫版の95ページに、「簡易電卓計算機」というのが出てくる。昭和40年代前半には、この手回し式の卓上計算機を使っていて、この小説でも「ハンドルは直径10センチ程度のものなので、かなり力を入れながらその小さな円を素早く何百回も回さなければならなかった。だから、二時間もやっていると手のひらや腕がぼわんと熱をもって痛くなってくるのだ」と書かれている。椎名もやってたんだ、と意外だった。というのは、都内デパートの売り場別の前年同月比を出して表にするために、オレ、ずっとこれやってたんだよ。つまり新入社員の仕事だったわけ。このくだりを読んで、新入社員のときのことを思い出した。

椎名あれを買ってきたのはおれなんだよ。

目黒どういうこと?

椎名銀座を歩いていて、中古屋で見つけて買ってきたのさ。それまではそろばんしかなかったから。でもそろばん、おれ出来ないからさ。困ったなあと思っていたときに見つけた。あれ、ドイツ製なんだよ。当時、中古で1万か2万だったかなあ。

目黒おれがデパートニュース社にいたのは一年足らずなんだけど、在籍していたころで覚えているのは、この手回し卓上計算機をまわしていたことと、千葉県庁に一人で取材に行ったことと、それと自動販売機の特集記事を書いたときに、「自動販売機がスクラム組んで攻めてくる」と椎名が見出しを付けたこと、この三つしかない。

椎名よくそんなこと、覚えているなあ。

目黒うまいタイトルだなあと感心したのさ。話があちこち飛んじゃうけど、この小説の中に、ビルの屋上に集まってトランプで賭け事するシーンがあるよね。

椎名あと、宴会な。

目黒あれは実話なの?

椎名うん。専務によく注意されてたな。椎名君、会社には出来るだけスーツを着て、ネクタイをしめて来なさいとか、会社には泊まらないようにとか、会社で酒を飲まないようにとか。いま思えば、専務が全部正しいんだけど、その当時はそう思わなかった(笑)。結果を出せばいいんじゃないって思ってたな。

目黒いまでも覚えているんだけど、椎名が突然頬が陥没した状態で出社したの。目の上は腫れているし、あとで聞いたら前の日に喧嘩して殴られたらしいんだけど、その顔を見て、専務が「椎名君、今日はいいから」って。一緒にどこかのデパートのお偉いさんと会う予定だったらしいけど、専務が結局一人で行ったのを覚えているよ。この編集長は何を考えているんだろうと思ったね。暴力的に生きている人を初めて見たから驚いたんだと思う。

椎名あったなあ。そんなこと。

目黒椎名はいつもあとさき考えずに書く傾向があるんだけど、この小説でも神田川沿いの小料理屋「かぶや」のママが夫にやや不満って書いているんだけど、これ、書いちゃまずいでしょ。いいの? 何も言われなかった? モデルとなる店も、ママさんもご主人も、おれは知ってるけど。

椎名だって本当だもん。

目黒いや、そういうことじゃなくて(笑)。

椎名これ、テレビドラマになったんだよ。

目黒NHKで椎名役を緒方直人がやったやつね。あれはなかなかいいドラマだった。あとは新潮文庫版の解説を菊池仁が書いているんだけど、その中に「派閥天丼」という言葉が出てきて、興味深かった。つまり中小企業はもともと人数が少ないので、大企業のような派閥はないと。あるのは昼飯を食べにいく派閥だけであると。それを菊池仁は「派閥天丼」と表現したわけ。なるほどなあと思った。

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