『犬の系譜』

目黒次は『犬の系譜』です。1988年に講談社から刊行されて、1991年講談社文庫に入ったものですが、驚いたのは「ですます」調なんだよ。椎名の全作品をまだ読んでないので断言は出来ないけど、これ以外に「ですます」調で書いた作品はあるの?

椎名いや、これだけだなあ。

目黒その理由は?

椎名それが思い出せない。

目黒あとがきによると、「小説現代」に書いた同じ題名の三十枚の短編を同誌宮田昭宏編集長から長編に書き直すことをすすめられたってある。この「犬の系譜」は小説現代の1987年1月号から12月号まで書いたものなんだけど、つまりその前に三十枚の短編を一度書いているわけだ。それは小説現代に載ったはずだよね。その最初の短編がその後どの単行本にも収録されてないからわからないけど、あるいはその三十枚の短編を見て、長編化のときは「ですます」調でどうかと宮田編集長にすすめられたとか、そういうことがあるのかもしれない。あるいはその最初の三十枚の短編から「ですます」調だったのかどうか。

椎名記憶にないなあ。

目黒おれは推測したんだよ。これは私小説なんだけど、大人になった椎名が出てくる『岳物語』とちがって、椎名が幼いころの私小説だよね。だから、『岳物語』とはわけて考えたと。『岳物語』は現在のというか、執筆当時の椎名が時々顔を出してたよね。油断しているとそうやって現在の椎名が顔を出しちゃうから、それを戒めるために、『岳物語』とは違う作品にするために、あえて「ですます」調にしたと。

椎名そんな賢い計算はないな(笑)。

目黒ま、いいか。「全自作を語る」の中でこの作品に触れて、「兄貴たちからは、あまりあからさまに書くな、と若干のクレームがつきました」と椎名が書いている。

椎名なんでも書いちゃったからなあ。

目黒父親がいて母親がいて、姉がいて兄がいる。そういう家族の風景が描かれるんだけど、これ、すごくいいねえ。吉川英治文学新人賞を受賞した作品だけど、絶妙だよ。

椎名ほお。

目黒父親が「ぐおんぐおん」と咳するところや、長兄の嫁がきて幼い私の心が浮きたつところ。そしてその長兄は結婚する前よりさらに不機嫌になるところなど、細部がすごくいい。喧嘩しているわけじゃないけれど、微妙にずれた家族の風景を実に鮮やかに描いている。家を出て深川に下宿する姉も、高校生の次兄も、なかなかいいんだけど、何といっても絶妙なのは、家で飼っている犬が物語の背後にいて、それが拡散する家族話を引き締めていること。その犬の効果は計算して書いたわけじゃないと思うけど(笑)。

椎名うちの犬は代々、「ぱち」だったんだ。

目黒えっ、どういうこと?

椎名父親が公認会計士だったから、いつも算盤をはじくわけだよ。ぱちぱちと。だから犬の名前も「ぱち」。

目黒代々って、犬が変わっても、同じ名前にしたということ?

椎名世田谷にいたころはな。千葉にきてからは、ジョンとかチヨとかになったけど。

目黒ふーん。

椎名小学校二年のときかなあ。学校で「ぱちのこと」という作文を書いたら、先生が赤を入れてきて、「ぱ」が「ぽ」になっていた。つまり犬の名前は「ぽち」だろうって先生は思い込んでいたんだろうな。

目黒文庫の帯に、吉川英治文学新人賞の選評が抜粋されているけど、これがすごいよ。たとえば井上ひさしの選評は「宮沢賢治ばりの質と品のよい文章で綴られた、ある〔ついてない家〕の記録である。だがこれは、柔な記録ではない。たえず異物を排泄しつつ新しい血を併合し、ふしぎな生成をとげる家というものの正体に、少年の眼をもってどこまで肉薄できるかに賭けた剛直な精神が底に流れている」というんだけど、うまいなあ褒めかたが。

椎名褒めすぎじゃない?

目黒ちょっと褒めすぎだろというくらいがいいんだよ。このちょっとあとに直木賞の候補になる『ハマボウフウの花や風』の表題作より、こちらのほうがいい。あの候補作は読み返してないけど、記憶ではこの『犬の系譜』のほうが断然いい。これが候補になってたら取れたかもしれないね。

旅する文学館 ホームへ