『シベリア追跡』

目黒それでは『シベリア追跡』です。これは週刊ポストに連載されて、1987年12月に小学館から刊行され、1991年3月に集英社文庫に収録されました。これは今読んでも面白い。江戸中期にロシアに漂着した大黒屋光太夫の足跡を追いかけるノンフィクションだけど、テレビで行ったんだっけ? 冬と夏の2回、行っているね。

椎名TBSだね。

目黒写文集『零下59度の旅』はこのときの写真だよね。

椎名そう。

目黒『シベリア追跡』が面白かったのは、たとえば文庫本の57ページに、椎名がウォッカを飲んで記憶をなくすくだりがある。珍しいよね記憶をなくすのって。「どうやって部屋までたどりつき、何時頃寝たのかまるで覚えがなかった」って書いているけど。

椎名日本ではウォッカというけど、向こうではウオトカと言うんだよ。で、政府の公式招待で行ったから、会食があるわけ。みんなで円卓を囲んでさ、一人づつ立ち上がって演説して最後に必ず「世界平和のために」と言って、乾杯するわけ。ウオトカは45度から55度と強い酒なんだよ。それを飲むというより胃に放り込む。

目黒味は?

椎名味はしない。酒ってのは二種類の酔い方があってね、ビールは飲んだ瞬間に口と喉でもう酔い始めて、胃に入るころにはまろやかになっている。ところがウオトカは胃に放り込むだろ、するとひゅーっと入っていく。そこまでは何も感じない。ところがしばらくすると胃から腸に向かってじわじわと浸透していく。だから、酔うまで気がつかない(笑)。気がついたときには、ぐわーんと酔っぱらっている。しかもウオトカは直接体にくるからね。トイレに立てないんだ。壁を伝っていかなくちゃならない。

目黒あのね、世界平和のためには飲まなければならないっていう証言はわかったけど、あなたは同じ57ページにこう書いている。「こんなに苦痛をともなった二日酔いは三年前にメキシコのマリアッチ広場でテキーラを一晩中飲んだとき以来だった」。ウオトカじゃなくても酔っぱらってるぜ。

椎名メキシコは高度が二千メートルあるんだよ。酒というのは高度があると酔いが早く、激しくなるからね。それをすっかり忘れてね、マリアッチ広場にいくと、音楽がかかっていて、みんな陽気だろ、ついつい飲み過ぎてしまう(笑)。

目黒(笑)ま、いいや。これが面白かったのは、我々の知らないことがたくさん書かれているからでもあるんだけど、いや、おれが知らないだけかな。たとえばロシアの飛行機には暖房がないとか、飛行機に立ち乗りがいるとかね。あと、ロシアのレストランの真実。これが面白かった。

椎名何だっけ?

目黒ボーイやウェイトレスがなかなかきてくれない。メニューにあっても注文すると「今日は出来ない」って言われる。いまはそんなことないのかもしれないけど。

椎名あったなあ。

目黒マイナス55度以下になると鳥も飛べないから、もちろん飛行機も飛べないって話も興味深かった。どこかに行ったとき飛行機が飛ばないから帰ってこれないくだりがあったよね。それと冬のシベリアで焚き火をするシーンがあるんだけど、「熱い」か「冷たい」かしかない。その中間はないってところ。焚き火に近づきすぎると「熱い」んだけど、ちょっと離れるともう「冷たい」。そのどちらかしかないっていうのが面白かった。

椎名そうなんだよ。

目黒あと、雪が降ってくると、「暖かくなったんだ」とみんなが思うくだり。つまり寒いと雪も降らないんだね。

椎名零下50度くらいのところで素手で鉄に触ったら、もう手が離れないから怖いよ。

目黒さっき言うのを忘れたんだけど、ウオトカで酔わないためには、飲む前にバターやミルクや肉などをたくさん食べておき、胃に脂の膜を作るのがいいって椎名が書いている。酔っぱらったあとに現地の人に聞いて学習したんだろうね。

椎名うん、トマトを食べるのもいいって聞いたなあ。

目黒ふーん。

椎名あと、お前、知ってるか? 冬の間はスキーもスケートも出来ないんだ。春になって少し暖かくならないと滑れない。だから春になると「ようやくスケートが出来るようになったね」というのが挨拶になる。

目黒その話、『シベリア追跡』に書いていないんじゃないかなあ。

椎名そうか。

目黒とにかく、椎名の初期作品、いやもう1987年だから初期でもないか、1979年デビューだから、作家になって8年目。ここまでの作品の中ではベスト5に入る傑作だよ。大黒屋光太夫が日本に帰国後、その体験を語った『北槎聞略』と、それを資料にして小説化した井上靖『おろしや国酔夢譚』、この二冊を繙きながら椎名が旅していく記録になっているから、奥行きがあるんだね。

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