『はるさきのへび』

目黒ええと、次は『はるさきのへび』。1994年4月に集英社から出て、1997年6月に集英社文庫と。これは「青春と読者」に連載したものだね。椎名には珍しく中編集になっている。初めてじゃないかな。短編集は多くても中編集というのはね。中編3編をおさめている。その中ではなんといっても、真ん中の「海ちゃん、おはよう」が異色中の異色。

椎名あ、それは覚えている。

目黒なんと女性の視点で描いている。

椎名おれに言わせて(笑)。

目黒はい椎名君。

椎名Pちゃんが編集長になったんだよ。育児雑誌の。それで小説を書いてって言うんだ。しかもなんか新しいことをやってと。で、そうかあって、女性の視点でやったんだけど、失敗だったな。

目黒一応もう少し説明しておくと、若い夫婦に娘が生まれて、その日常を妻の視点で描いたわけだ。椎名の最大の異色作だよね。女性の視点で小説を書いたことなんてないでしょ?

椎名これだけだよ。

目黒そういう実験をすること自体は悪くないんだけど、これは失敗だね。巻末に「娘と私」という中編が入っていて、読み比べればはっきりする。これも若い夫婦に娘が生まれる話で、娘の名前も「葉」になっていて、こちらは全部実名。つまり『岳物語』のような私小説になっている。「海ちゃん、おはよう」と「娘と私」は同じ話といってもいいから、比べやすいんだ。中身は同じ話で、女性視点の創作と、椎名の私小説という違いがあるだけだから。

椎名ま、そうだな。

目黒読み比べると、「海ちゃん、おはよう」が失敗だったことはすぐにわかる。あと、冒頭におさめられている「階段の上の海」も失敗だと思う。

椎名どんな話だっけ?

目黒こちらは私小説ではないんだけど、若いサラリーマンが妻に何の不満もないのに、他の女に惹かれていく話。中途半端だよね。この男は結局何もしないんだけど、それはいい。描き方が中途半端なんだ。たぶん長編にするつもりで書き始めて、うまく転がっていかないんで中編になっちゃったんじゃないかなあ。

椎名何も考えずに書いているからなあ。

目黒でも最後の「娘と私」はいいよ。おれがえっと思ったのは、娘が生まれて一年ぐらいしたころ妻とよく口論したとか書いているのさ。こんなこと書いていいのって思った。

椎名書くだろそのくらい。

目黒でもね、こんな文章もある。

事実それまで何度か両者で離婚を口にしたことがあった。まだ私も妻も血気盛んな二十代の若さだった。

こういうことを椎名は書かないと思ってた。沢野じゃないんだから(笑)。

椎名あるだろそんなこと。

目黒いや、あっても書かないと思ってたんだよ。あともうひとつ、「娘と私」の中に、若い椎名が生まれたばかりの娘に宛てた手紙が出てくる。部屋を整理していたら出てくるの。この手紙って創作でしょ?

椎名いや、本当だよ。

目黒えーっ、嘘ーっ。

椎名どうして?

目黒だって、そんな手紙が本当にあるなら、『椎名誠の増刊号』(1993年新潮社、のちに新潮文庫『自走式漂流記』)に載せるでしょ。克己荘時代の日記とか高校時代の習作とか載せているんだから、父親になって間もないころの椎名が、生まれたばかりの娘に宛てた手紙なんて、絶対に収録するよね。ところが実際には収録してなかったから、これは創作だなと。そう推理したわけ。

椎名いや、この手紙を書いたことを忘れてたんだ。

目黒忘れるなよ(笑)。

椎名で、ずいぶんたってから部屋を整理していたら出てきた。娘がこれを読んだのかどうかは知らないけど。

目黒ま、手紙それ自体は、父親がいかにも書きそうな普通のやつだから、別にどうってこともないけどね。それよりも、この「娘と私」のような作品を残すことが、娘にとっては宝物だよ。

旅する文学館 ホームへ