『水域』

目黒ええと、それでは『水域』です。これは1990年に講談社から刊行されて1994年に講談社文庫に入ったんで、てっきり小説現代に書いたものだと思っていたら、連載はブルータスなんだね。

椎名そうなんだよ。

目黒これは椎名が単行本のあとがきに書いているんだけど、『ねじのかいてん』に収録されている30枚の短編「水域」を長編化したものであると。ということは、短編バージョンを書いたときから、長編化したいと考えていたの? そのあたりのこと、覚えている?

椎名ブルータスから連載の依頼がきて、なに書いてもいいと言うんだ。小説でもエッセイでも何でもいいと。で、短編バージョンの「水域」を思い出したんだけど、まだ業界のことをよく知らないころだったから、一度短編で書いたものを長編にするなんてこと、してもいいのかどうかわからなくてさ。

目黒ほお。

椎名で、村松友視さんに相談したんだ。こういうことをしてもいいのかどうかって。

目黒そんな初歩的な質問を、忙しい人にしたら悪いよね(笑)。

椎名それは大いにありますよ、間違いのない手法ですよと言われて、だったらしてみようって。

目黒今回久々に再読したんだけど、これはすごくよかった。多くの人が言っているように、この時期の椎名SFに特徴的な造語が素晴らしいのはもちろんなんだけど、それだけでは傑作にならないと思う。それ以外のところもいいんですよ。たとえば、これは冒頭に出てくるんだけど、なぜか主人公ハルの船にずっとついてきた赤眼シイラが、船から離れていくくだりがある。もう赤眼シイラの住めない水域に入ってきたからなのかどうかわからないけど、突然ばさばさっと踊りあがるようにフネのまわりを泳ぎまわって離れていく。ハルはその赤眼シイラにグロウと名付けていて、グロウが去った日、ずっと1日中涙を流すんだ。ここがいいよね。ハルの孤独が胸を打つ。

椎名ほお、すごいな。おれが感心していちゃいけないんだけど(笑)。

目黒あとは奇跡的に構成が抜群なんだ。たぶん深く考えて書いたわけじゃないと思うんだけど(笑)、グロウが去ったことの喪失感から始まって、いろんな人に出会っていく。騙されたり、一緒に旅をしたり、その押し引きが実にうまい。

椎名あのね、気がつく人もいたんだけど、「2001年宇宙の旅」って映画があっただろ。あそこに出てくるコンピュータがハルと言うんだ。『水域』の主人公の名前はそこから取ったんだよ。

目黒講談社文庫の解説を沼野充義が書いていて、そこでそれを指摘してるぜ。

椎名そうか。

目黒この解説は面白かった。「倒錯した比喩」という言い方を沼野充義はしてるんだけど、普通比喩というのはわかりにくいものを説明するためにわかりやすいものを譬えに使うわけだよね。ところが椎名SFではそれが逆転していると。たとえばこの『水域』に、「ハルは間もなくノキリ虫のように前後に小さく首を振り」という描写が出てくる。首を振る様子を、「ノキリ虫」のようにと譬えたわけだけど、そのノキリ虫が何だかわからないから、「その結果読者の感覚は日常的世界に安住していることができず、いやおうなしに異次元の世界へとひきずりこまれてしまう」っていうんだよ。

椎名覚えてないなあ。

目黒たぶん深く考えて書いたわけじゃないと思うんだけど(笑)、このSF三部作を書いた1990年前後は、椎名がSFにもっとも力を注いでいたころだから、その密度の濃さが言葉を呼んだんだと思う。頻出するわけのわからない造語もそうだよね。いまなら絶対にもうこういう造語はつくれないと思う。椎名がSFに夢中になっていたころだから、言葉があふれ出るんだよ。

椎名なるほどなあ。

目黒これ、なぜ水に覆われてしまったのか、背景についてはいっさい書いてないよね。ただただ、水に覆われた地球を、たぶん地球だと思うんだけど、男が旅する話で、20年前はSF3部作の中でいちばん地味な作品だと思っていた。『アドバード』は物語性が濃くて、派手な道具立てがいっぱいあって、それに比べるとこの『水域』は物語性が希薄だから地味だなあと。ところが久々に再読すると、これがいいんだ。あえて乱暴に言うけれどね、『アドバード』はあれだけの道具立てを用意すれば椎名でなくても書けると思う。でもこの『水域』は1990年の椎名でなければ書けなかった。だってさ、この地味な話を長編にするのは大変だよ。それなのに、読んでいる間は全然退屈せず、むしろ緊迫感にあふれている。

椎名これ、女が出てきたよな。

目黒それがいいんだ。ズーという女性とね、しばらく旅を続けるんだけど、ズーが自分たちのフネに名前をつけようと言うんだ。ハルが何と名付けたと思う?

椎名何だ?

目黒「オハヨウ・グロウ号」。ここで冒頭の赤眼シイラの挿話が効いてくるのさ。椎名のSF3部作のなかではいちばん地味な作品ではあるけれど、再読した結果はこれがベスト1だね。すごいよ。

椎名このころのオレに戻りたいなあ。

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