『走る男』

目黒次は『走る男』。週刊朝日に連載した小説で、2004年1月に朝日新聞社、2007年1月に朝日文庫と。これは意外に面白かった(笑)。

椎名そうかねえ。

目黒おれね、週刊朝日の1回目を読んだだけで、あとは読んでなかったような気がする。1回目が、パンツ1枚の男が大勢の男たちと一緒に走っていて、ただそれだけの話なんだ。椎名は絶対に何も考えずに、これを書き出したなと。それはわかるから(笑)、どうするんだこの話。こんなところから始めちゃって、と思った記憶がある。だから、つまらないと思っていたのは、読んだうえでの判断じゃなくて、1回目を読んだだけの感想だったんだね。あの迷作『長く素晴らしく憂鬱な一日』と同傾向のものだと勝手に決めちゃったんだ。これは無残な結果になるだろうから、出来れば読みたくない、と心理的なブレーキがかかって本になってからも読まなかったんだろうね。

椎名何も考えずに始めたのはその通りだけど(笑)。

目黒でも今回初めて通読したら、これがなかなか面白いんだ。

椎名ホントかよ?

目黒まずね、構成がうまい。

椎名行き当たりばったりなのに?

目黒何も考えずに始めたわりに、奇跡的に成功している。まず喋る犬が登場するんだけど、ちゃんと喋れないというのがいいし、生活に必要なものを一つずつ手に入れながら、それをまた失うというアクシデントも、この手の小説の常套的な展開とはいえ、椎名の場合はすべて無計画だから、よくこんな構成をその場しのぎで思いついたよなと感心する。

椎名確認だけどさ、お前、褒めてるよな(笑)。

目黒もちろん、褒めてます。しかもね、少しずつ、未来社会あるいは異世界であることが暗示される。たとえば、水に同化している「筏の男」とか樹人とか、「中国の亜空間宇宙飛行士がもっとも愛用した栄養豊富な携帯食」とかね。文庫版の帯に、『アド・バード』『武装島田倉庫』などの世界観を引き継ぐシーナワールド全開の超常系長編小説、と編集者が書きたくなる気持ちもよくわかる。残念ながら違うんだけどね。

椎名違うんだ。

目黒そりゃそうだよ。いちばんびっくりしたのは、主人公がなぜ走っているのか、最後に理由が明かされること。『アド・バード』や『武装島田倉庫』と違う点はあとで話しますが、『長く素晴らしく憂鬱な一日』とも違うのはこの点だよね。こっちにはきちんとした理由がある。すべてが見事に説明されるオチが見事。こんなこと、最初から考えていたわけじゃないよね?

椎名どういうこと?

目黒この小説の内容を覚えてない?

椎名苦しかったことは覚えているけど、何を書いたのかは覚えていない。

目黒しょうがないなあ(と内容を説明する)。このオチを最初から考えていたの?

椎名考えているわけがない。

目黒そうだよね。

椎名『アド・バード』や『武装島田倉庫』と違う点って何なんだ?

目黒『走る男』は、最後にすべてが説明されて全部納得するんだけど、でもその分だけ物語に広がり、情感というものがない。いやあ、よくまとめましたね、という感じで終わっている。この『走る男』を読むと、これだけ面白いのに、これだけ計算されつくした物語であるのに、読み終えたあとの印象は意外に薄いから、小説というのはつくづく難しいものなんだなと思いますね。

椎名ふーん。

目黒でもね、『アド・バード』や『武装島田倉庫』は二十年に一度という傑作なんだから、あれを何作も書くのは無理だよね。ルーティンとして『走る男』レベルの作品を書いていくというのも作家としての一つの選択だと思う。ここには意外に器用な作家・椎名誠がいるんだ。

椎名どういう意味?

目黒こういう作品をもっと書けばいいのに、と言いたいわけですよ。

椎名もうやりたくねえな。

目黒そう言われると、ミもフタもない。

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