『菜の花物語』

目黒次は『菜の花物語』です。1987年9月に集英社から刊行されて、集英社文庫に入ったのが1990年の10月。青春と読書に連載したもので、増刊号では『岳物語』の路線を継承したものです(笑)と語っているが、小説というよりはエッセイに近いね。

椎名『岳物語』が終わってからまた何か書いてくださいって頼まれたんだろうな。

目黒義母が亡くなった夏の鬼子母神の思い出とか、松山に取材に行く話とか、犬ガクがフィラリアになる話とか小説ふうな仕立てにはなっているものの、連作を貫くテーマがないのは弱い。それに一編ずつのタイトルも、「なつかしい眼をした女」とか「足首の問題」とか、小説のタイトルとしてはあまり出来がよくない。

椎名これ、でも山周賞の候補になったんだぞ。

目黒第1回だね。そのときの受賞作が山田太一『異人たちとの夏』で、他の候補が船戸与一『猛き箱舟』、干刈あがた『黄色い髪』だから、ちょっとこのときの椎名には無理だよ。『パタゴニア』なら受賞したと思うけど、そのころにはまだ山周賞がなかった(笑)。

椎名直木賞はあったぜ(笑)。

目黒『パタゴニア』は小説ではないと思われたんだろうな。候補になってたら受賞しても不思議ではなかったと思うよ。まあ冗談はともかく(笑)、この小説集についてはあまり語ることがないんだ。あ、一つだけ。

椎名なんだ?

目黒終わりのほうに二十歳のころに失恋した回想が出てくるんだよ。好きな女の家は二子玉川の近くにあって、渋谷のレストランで彼女とカレーを食ったと。女が妙に時間を気にして夕方までに帰らなくちゃならないと言いだしたんで、カレーを食って別れたと。それから東横デパート、いまの東急デパートの屋上まで行ってポケットウィスキーをラッパ飲みしたら飛び降りたくなった──そういう回想が出てくるんだけど、これ、実話?

椎名うん実話だね。ポケットウィスキーをぐびぐび飲んで会いに行ったんだ。

目黒ちょっと待って。会う前に飲んだの?

椎名ホントはね。

目黒じゃあ、もしかすると渋谷のレストランでカレーを食ったというのも?

椎名カレーは食ってない(笑)。

目黒玉電に乗ったのは?

椎名それは乗りました(笑)。

目黒あった話をそのまま書いているわけではないんだね。小説化している箇所があるってことだ。

椎名玉電に乗って二子玉川まで行って、彼女を呼び出したんだ。

目黒ちょっと待って。そもそも彼女とはどこで知り合ったの?

椎名高校の同級生。

目黒それなのに二子玉川に住んでたの?

椎名引っ越したから。で、当時は駒沢大学の学生と付き合っていたんだ。そいつを殴っちゃおうかと思ったよ(笑)。で、彼女の家まで行って呼び出した。お父さん、椎名君が来たからちょっと外に出ていい?って彼女が言って出てきたのを覚えてるな。

目黒玉電に乗る前にポケットウィスキーをラッパ飲みしたというのは?

椎名告白する勇気がなかったんだな。酒の力を借りなければとても玉電に乗れなかった。

目黒椎名さあ酒飲んで行っちゃだめだよ。おれも若いころまったく同じことをした(笑)。告白するのに勇気がなくて酒飲んで会いに行って、近所の喫茶店に彼女を呼び出して告白したら、「お酒を飲んで言うことではないと思う」って睨まれた。

椎名お前もばかだねえ(笑)。

目黒酒を飲んでなくても断られてたんだろうけど。

椎名おれもたぶんそうだな。

目黒しみじみとそう思うね。

椎名東横デパートの屋上でポケットウィスキーをラッパ飲みしてね、1階までエベレーターで降りると人間はどうなるか知ってるか?

目黒えっ、どうなるの?

椎名胃が痛くなってしゃがみこみたくなる(笑)。

目黒(笑)それは緊張もあるんだろうね。

椎名哀しい思い出だな(笑)。

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