目次:「いづめ」との出会い
折々のカメラ

▪️「いづめ」との出会い
のっけからヘンな話だが、人を殴る練習ばかりしていたガキの時代があった。中学生の頃だった。学校が荒れていて、教室の壁は、それを殴る生徒によって穴だらけだった。
 2つの勢力が対抗していて、ぼくのいるほうが劣勢だった。何回か喧嘩した。
 ぼくは殴られ、そして殴りかえした。そういうことが続いていた。本当はとても嫌だった。悲しい日々だった。心がすさむというのはああいうことを言うのだろう。
 そのとき1枚の写真に出会った。兄が購読していた写真雑誌『アサヒカメラ』の1ページだった。それは読者が投稿したありふれた1枚だったのだろうけれど、ぼくはその1枚にこころがうばわれた。ずっと見ていた。
 陽のあたる農家の縁側で眠る赤ちゃんの写真である。それは「いづめ」というものらしい。竹のようなものでつくられた籠である。「いづめ」というのだからあたたかいご飯の入ったおひつなどを入れて布でくるみ、その籠に入れる保温道具なのだろう。そこに赤ちゃんが入れられてあたたかい日差しのなかでゆったり眠っているのである。
 そのとき、目下の自分の気持ちや感覚とまったく逆の世界を感じた。世の中にはこんなふうにやわらかくてあたたかくてやさしい気配に満ちたものがあるんだ。そうか。ぼくはもっとそういうほかの世界のことを考えよう。そういう思いだった。このいづめに赤ちゃんを入れてあげた親の心のあたたかさがその1枚の写真から伝わってきた。
 その当時、ぼくの気分はいまでいう不登校願望に近かったように思う。ああいうのがもっと進んでいき、精神まで傷ついて自我が弱まっていくとついには自殺などという愚挙に走る可能性だってあるのだろう。
 ぼくは、その写真を見て、ふいにいまいる、このわけのわからない、がさつに閉塞したろくでもない空間にそうそういつまでもつきあっていなくていいのだ、ということに気がついた。事実、あと半年もしたら次の進路、高校にむかってあたらしい世界に出ていけるのだ。
 気持を切り換えて、じわじわとその狭苦しい世界から脱出していくように努力した。思いがけない「写真の力」をはじめて感じたときだった。
 以来、ぼくと写真の関係は密接になっていく。いつしか将来は写真を仕事にしたい、と思うようになった。写真家でなくてもよかった。暗室のなかで白い印画紙から風景や人物を誕生させる暗室作業のケミカルな技術者というのも憧れだった。
 結果的にはそういうようなプロの方向には進めず、思いもよらなかった作家という職業になっていたが、それに関連してかなり幅ひろく写真を撮る仕事ができるようになっていた。そして気がつくと回り巡っていつしかぼくは『アサヒカメラ』に自分の写真の連載ページをもっていた。中学生の頃に「生きる力」を与えられた雑誌である。
 ぼくは文章の世界のプロであったので、その文章と自分の撮った写真を合体させた3ページものの表現手段を無意識のうちに開拓していた。それは嬉しい連載仕事であった。
 2009年の11月号で連載200回をむかえた。編集部からそれについての感想の取材をうけた。堀瑞穂さんという、ぼくにその連載ページを設けてくれた、写真の世界の恩人がインタビューしてくれた。何度も話をしているので、ぼくの、稚拙ながらも、あんがいしぶとい写真への情熱を理解してもらっている方だ。
 1995年にその堀さんが丸々1冊、ぼくの写真とその周辺のもので構成するアサヒカメラ増刊号『椎名誠写真館』を編集してくれた。
 そのときのロングインタビューでぼくは「誰が撮っても一番素晴らしい写真は家族写真だろうと思っています」というようなことを話した。プロの世界ではまるで相手にされないジャンルである。
 でも、そのときから今日まで写真のなかにもっとも熱い愛情あるまなざしが注がれるのが「家族の写真」である、というぼくの信念、いや確信は変わらなかった。親が子供を撮るときの慈しみほど大きく重いものはない。また逆に子供が親を撮るときにも同じくらいの大きな感謝と尊敬と慈しみがあるはずだ。ぼくがすさんだ中学の狭い苦しい閉塞世界から脱出できた力の素は「いづめにくるまったしあわせそうな赤ちゃん」の1枚の写真だった。その写真のなかにまさしくそれを撮った親の大きな愛情の世界をぼくは本能的に感じていたのだろうと思う。
 そのときの思いはずっとぼくのなかに生き続け、いま自分が「世界中で写真を撮る」ときの心のモチベーションになっている。そして気がつくとぼくはその『アサヒカメラ』以外の雑誌などでかなり写真の仕事をするようになっており、写真の本もかなり出すようになっていた。
 いちばん最初に単独の写真でギャラを貰ったのはポストカードだった。それはフランスの会社に売れた。ぼくが新米の父親をやっていたまだサラリーマンのときに撮った自分の2人の子供の写真だった。4歳ぐらいの娘が1歳ぐらいの弟に、日曜日の朝、布団のなかでなにかお話ししている。
 はじめて買ったアサヒペンタックスSPというカメラにスクリューマウントのレンズでそのやわらかい風景を撮った。その頃は、世の親がみんなそうであるように、ぼくもことあるごとに子供たちの成長を写真に収めてきた。それらの写真をぼくは自分で印画紙に焼いていた。ただ保存していくだけのファミリー写真だが、やわらかい日差しのなかの息子や娘、妻の様子を写真として残せるということに幸せを感じていた。そういう時代が長く続き、期せずしてそれはぼくの写真づくりの基礎訓練になっていったようだった。
(講談社 『五つの旅の物語』より)

▪️折々のカメラ
 一番最初に手にしたカメラはたしかスタートカメラといった。子供むけのボックスカメラで、当時子供が持てるカメラといったらそれぐらいしかなかった。小学校の遠足で誰かが持ってきたのを借りて何枚かシャッターを押した。思えばそれがはじめて撮った写真ということになるが何を撮ったか全然憶えていない。
 中学のときに近所のカメラ屋が「貸しカメラ」というのをやっていた。二眼レフなので、そのときブローニー判というフィルムの存在を知った。数年して兄がペトリカメラを買った。我が家の〝大事件〟であった。これではじめて本格的に写真を撮るようになったが、1年をへずして二男の兄がこれを質屋に入れて流してしまい、あっという間にタカラモノはなくなってしまった。
 初めて自分で買ったカメラはアサヒペンタックスで、まだマウントがねじ込み式のものであった。中古品だったが「パシャッ」というミラーシャッターのカメラを手に入れたヨロコビは大きかった。
 以来5~6年はこのアサペンですべての写真を撮った。会社に入ると、マミヤプレスがあったので、これをあそび気分によく使った。晴れた日に三脚にのせて、絞りを最小にして息をつめてシャッターを押すと自分でもびっくりするくらいシャープな6×9写真が撮れた。
 モノカキになってすぐに手に入れたのはニコンF3で、これはその後世界各地の旅行で一番頼りになる相棒となった。
 文学賞を貰ったとき、その賞金でライカM6の一式を買った。ライカにそれほどの強いあこがれがあったわけではないが、なにか記念になるものを、と考えたら結局そういうことになった。各レンズをセットで買ったのだが、よく考えると、いま使っているレンズは35ミリ1本で、その他は殆ど使ったことがない。思えばムダな買い物であった。しかし、何か大事な写真を撮るというとすぐに頭に浮かぶのはこのM6である。
 近頃の主力カメラはミノルタα系とサブカメラはコンタックスT2が多い。コンタックスRTSⅢもズーム付レンズとともに何度か使ったがとにかく重いので旅には不向き。立派なカメラをいたずらに留守番させているのは思えばもったいない話だ。
 1、2か月の長い旅に出るときは30ミリぐらいの広角から300ミリぐらいまでカバーできる望遠レンズ付きの小型カメラが一番力になる。今はないアサヒペンタックス系の大衆価格レベルの小型カメラに、それにかなう機種があった。これはメコン川の撮影でかなり活躍したが、最後はメコンデルタの水中に没した。
 フィルムカメラで旅の写真を撮るのは、とにかくフィルムや関連機材が重くなるので大変だが、デジタル時代に入ると俄然条件は変わった。ずしりと2、3キロぐらいになるフィルムを持って行かなくてすむというのは、辺境地帯を旅する者にとっては至福の撮影革命みたいな気分だった。慣れないうちはいろいろなデジタルカメラを手にしたが、今はニコンDFで落ち着いている。
 もう1台愛用しているのはライカのM9で、相当な高額だったけれどなんとしてでも手に入れたかった。しかく国内ではもう売り切れで全く手に入らない。ドイツまで買いに行けばいいのだろうかと思った時に、ニューヨークに住んでいる娘のことを思い出した。そこからドイツに飛んだ方が日本から行くよりはるかに早い。しかし、そのときニューヨークにあるユダヤ人が経営している有名なカメラ店のことを思い出し、もしかするとそこにはまだあるかもしれないと思い、娘を走らせた。そこでわかったのは、日本が先行販売で、アメリカはこれからの販売だということだった。しめた、と思いました。そして1か月後にM9を手にすることができた。フィルム時代のM6と同じMマウントなので、フィルム時代に使っていたライカのレンズのすべてが使用できる。ぼくはF1.0のノクチルクスというレンズで夜の風景を撮るのが好きなのだが、これはロウソク1本で酒場のポートレートなどを撮れてしまう驚異のレンズだった。
 ニコンDFでは、やはり以前買った35〜200ミリのズームレンズを装填すれば、もう無敵のような気がする。今はもうこの2機種あれば満足である。
 そうそう、忘れていた。まだフィルムへの思いは強いので、もっとも世界中を旅したといっていいコンタックスT2にモノクロフィルムを装填し、サブカメラとして使っている。
 カメラ雑誌を見ると、どんどん新しい機種やレンズが生まれているけれど、あまり詳しく見ないようにしている。
(朝日新聞社 アサヒカメラ増刊号『椎名誠写真館』/1995年6月10日発行 に加筆修正)

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