『蚊』

目黒それでは3冊目の小説集『蚊』。これは1984年7月に新潮社から刊行されて、1987年に新潮文庫に入った。9編を収録していますが、1編だけがオール讀物、あとは小説新潮に載ったものです。1冊目の小説集『ジョン万作の逃亡』と同じように、SF的な作品と私小説ふうな作品のごちゃまぜで、この中では表題作の「蚊」が傑作。いま読んでも面白い。で、調べてみたんだけど、この短編が載ったのは小説新潮の1983年11月号なんですよ。例の粟島における「蚊取りテント事件」が1983年の8月。つまりこの「蚊」という短編は、あの粟島の事件にヒントを得て書いたことは明らかだと。時間的に符合するんだ。

椎名なるほど、そうかもしれないなあ。

目黒これは主人公が朝起きたら部屋の中に蚊がいっぱいいて、それから逃げられないというだけの話なんだけど、異常エスカレート路線のようでいて、微妙に違うのがミソ。これはこの作品集の中では抜けて傑作だと思う。あとは正直言って、ちょっといま読むと辛いかなあ。

椎名そうか。

目黒「日本読書公社」という短編が巻末に入っていて、これは特例かなあ。椎名がこの短編についてどこかに書いていたんだけど、昔メグロが「ずっと本を読んでいるだけで生活できないかなあ」と言っていたのを思い出して書いたと。つまりおれの若いときの夢想がヒントになった短編だということなんだけど、これ、椎名が電話をくれたんだよ。

椎名どんな電話?

目黒いまネタに困ってるんで、昔お前が言っていた「日本読書株式会社」の話を50円で売ってくれって(笑)。

椎名覚えてないなあ(笑)。

目黒で、おれ、楽しみに読んだんだよ。そしたら見事に椎名の小説になっているんで驚いたんだ。おれの夢想は株式会社なのに、椎名の小説では公社になってるし、椎名は公社が好きだよね。勝ち負けも好きだけど。

椎名この小説集で思い出深いのは、「波濤のむこう側」という短編かな。パタゴニアにいく前に、しばらく日本を留守にするからいっぱい書き溜めて行ったんだけど、小説新潮の短編だけが間に合わなかった。で、成田からバンクーバーまで9時間くらいの間に30枚か40枚を書かなければならない。書き上げたらスチュワーデスに日本に持って帰ってもらって新潮社に渡してもらう段取りでね。本当はそういうふうにお客から荷物を預かっちゃいけないらしいんだけど、新潮社とその飛行機会社が話をつけたようだな。

目黒「波濤のむこう側」は弥彦島という架空の島に、主人公が「波を見る会」というツアーに参加して行く話だね。この弥彦島ってのは明らかに八丈島をモデルにしたんじゃないかと思われる島だけど。

椎名かなり強引に書いたなあ。そのころ、うちの奥さんがノイローゼになっていて、それなのに旅に出たから思いが日本にあるわけだよ。だから暗い気持ちだった。でも体力がまだあったんだなあ、一睡もしないで短編を書き上げたよ。そのあと、パタゴニアまではずっと寝ていた。

目黒他に何か思い出ある?

椎名このころは駄作が多いなあと思うよ。「戸間袋急行」とかな。

目黒そうだ、ここに「さすらいのデビルクック」という短編が収録されているんですが、『むははは日記』の中にこういう記述がある。「その犬の宿命のライバルであった野性のニワトリ、通称デビルクックが小平警察にタイホされてしまった」と。このデビルクックとは何なの?椎名の家で鶏を飼っていたの?

椎名違うんだよ。おれん家の斜め前が林になっていて、そこに野性化したニワトリが結構いたんだ。

目黒どうして?

椎名縁日でヒヨコを買ってきた子供が世話しきれなくて捨ててしまうんだな。そういう鶏が野性化して、通りかかる人をつつくんだよ。だから問題になった。

目黒なるほど、そういうことか。まあ、どうということもない小説だねえ(笑)。表題作と、あとは個人的な思いがある「日本読書公社」は面白いけど、あとはねえ。コメントに困るなあ。作品集としては、私小説というか一般小説とSFが同居しているんで座りが悪いんだ。もうごちゃごちゃ。もう少し寝かせて、すぐに単行本にしないで、一般小説がたまるまで待つとか、SFがたまるまで待つとかすればよかったのにね。

椎名そんな余裕がなかったんだろうな。それっと本にしていたころだから。

目黒そういう時代の本であると。そういうことだね。

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