『さらば国分寺書店のオババ』その7

目黒「本の雑誌」の話の続きだけど、椎名のエッセイなんかを読むと、「本の雑誌」の初期は目黒が作っていたものをオレが手伝っていた、という記述があるんだけど、創刊号から7号まで特集をちょっと並べてみると、こうなる。

  • 1号--「泣き叫ぶ地球 人類破滅物語のカタログ」ブックガイド
  • 2号--「極私的出版広告大論評」(架空座談会)
  • 3号--文庫本をテストする(椎名誠と本の雑誌実験班)
  • 4号--読み方の研究(椎名誠と本の雑誌実験班)
  • 5号--「さらば国分寺書店のオババ」
  • 6号--うなだれし荒野のベストセラー
  • 7号--もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵

驚いたんだけどこれ、全部、椎名が書いているんだ。1号はブックガイドで、2号は一人座談会、5〜7号は原稿で、3号「文庫本をテストする」と、4号「読み方の研究」は実験レポート。この実験レポートなんだけど、おれ、まったくタッチしていない。椎名が近所に住んでいたユーちゃんとかを読んで実験したり、4号の特集写真は椎名がこぐま社を訪ねて沢野をモデルにして写真を撮ったりしてるよね。だから、おれは何もしていない。読み返してみて、これが意外だった(笑)。忘れたんだオレも。だから、6号直前に、「新宿の石の家2階におけるクーデター」というのがあって、椎名に乗っ取られる(笑)んだけど、その前から椎名がやってたじゃないかと。

椎名おれはクーデターって意識はなかったけどな。それに、特集はおれが書いていても、他の原稿は目黒が催促したり取りに行ったりしてたんじゃないか。

目黒いや、それも椎名と手分けしてたよ。で、お互いが知り合いに頼んだ原稿をそれぞれがボツにしたりするから喧嘩になるんだよ(笑)。最後は本多が持ってきた原稿を椎名がボツにしてさ、おれ、本多から呼び出されたもの。

椎名なにそれ?

目黒おれはそのときは、クーデター直後だから、編集会議にも出てないからよくわからないんだけど、本多が義理ある人の原稿を、椎名がボツにしたんだよ。

椎名おれが?

目黒そうだよ。で、おれが新宿に呼び出された。でもおれから言わせれば、椎名を編集長に選んだのはあんたたちなんだから、そういう文句は椎名に直接言ってくれと。おれに言われても困る、というのがあった。この話は『本の雑誌風雲録』にも書いたんだけど、本多はオレの友人だから、オレに言いやすいというのがあったんだと思う。わかったと言って帰る本多の後ろ姿を覚えている。それを最後に彼は本の雑誌を去ったわけ。ずいぶんたってから、和解してパーティにも来てくれたけど。

椎名それが何年?

目黒1977年だね。この年の春に出た「本の雑誌」の5号に「さらば国分寺書店のオババ」が載って、第1回奇想天外新人賞に「アドバタイジング・バード」を応募して。

椎名情報センター出版局にいた星山が訪ねてきたのもそのころだ。

目黒「本の雑誌」5号を読んで、「青年向け読書のすすめ」的な本の執筆を依頼しにきた。面白いのはそのとき星山は「濃紺に白のストライプのスーツを着て、やくざみたいなカッコ」だったというんだけど、よく考えたら自分も同じようなカッコだったと(笑)。

椎名あのころはそんなスーツを着ていたな。

目黒椎名が情報センター出版局から『さらば国分寺書店のオババ』を出すのは1979年なんだけど、この年は忙しいんですよ椎名は。増刊号の年譜を見ると、『クレジットとキャッシャレス社会』を2月、『クレジットカードの実務知識』を6月、『大規模小売店と流通戦争』を7月に出して、それから『さらば国分寺書店のオババ』を11月に出している。でね、増刊号には『さらば国分寺書店のオババ』は正月休みに書いた、とあるんだけど、正月休みに書いたものを当時の情報センター出版局が11月まで寝かすわけがないから、これは間違いだと思う。

椎名正月休みに書いたのは、『クレジットとキャッシャレス社会』のほうだろうな。たしかあれは百枚くらいだったから、10日もあれば書けるんだ。『さらば国分寺書店のオババ』のほうはもう少し時間をかけて書いている。

目黒依頼は、「青年向け読書のすすめ」的な本だったんだろ?

椎名書いているうちに、全然違うものになっちゃって、こんなんでいいのかなと思って星山に渡したら、これでいったりましょうって(笑)。

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