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出版社:新潮社

文庫

発行年月日:2016年01月01日

椎名誠 自著を語る

本を書くというのは編集者との気持ちのやりとり、意識の交流、感覚の衝突や融合などといったことが大きく関係する。別の表現、例えば、ボクシングなどに例えれば、著者はリングで戦うボクサーであり、編集者はセコンドで全体を眺めながら指示を与えるトレーナーの役割になる。新潮社の今泉さんはもう三十数年来の長い付き合いになるが、ぼくとはまさしく今いったようなプレイヤーとディレクターにも例えられる付き合いをしてきた同士で、彼がこういう企画はどうだ、と言ってくることはまあ間違いなくぼくが気がつかないままに意識がそこに向いているということを見抜いた核心を突くテーマであり大きな刺激がある。信頼感の問題だろう。  その今泉さんがあるときぼくに「椎名さんは身体頑健で、酒もがんがん飲み、いつもあちこちで暴れ回っているのをずっと見てきましたが、失礼ながらあなたもいつか死を迎えるということを本気で考えたことはないでしょう。」とまあ本当に失礼なことを言うのだった。でもよく考えたらそれは失礼でもなんでもなく、当事者から何歩かスタンスをおいてその進んでいくさまを眺めていてくれた有意義な示唆なのである。確かに言われた通り、ぼくは自分の死について一度も真剣に考えたことはなかった。同じことを、その当時どっちが先か後かは忘れたが、やはり長年ぼくの主治医から言われたことがある。この二つの示唆が、この本を書くモチベーションになった。  どうせ書くなら初めてのテーマであるから自分自身の死についての想いはもちろん、これまで自分が直面してきた世界各国での「人間の死」について、まずありのまま書いていこうと思った。世界のいろんな国々をかなりの期間旅してきたので、その過程で生々しい死や異文化ならではの衝撃、刺激を受ける葬儀などに出会った。それらには宗教や、それよりももう少し幅の広いその国の習俗などもからんでくるので、それらの視点から改めて見直すと、異文化の境界論のようなものも頭にちらついてくる。そこにはさらになぜ、という疑問符がつく。多く回答を出してくれるのが宗教というものの存在だった。多くの例はそれをベースにして死生観がつくられていく。  小さい頃から幾度も体験している日本の葬儀と、世界の様々な葬儀の極端な差は、なぜ起きるのだろうかというようなことまで思いが走ったとき、ぼくの目の前には今まで手にしていなかったたくさんの人間の死とその周辺のしきたりに関する本の山があった。それらを集中して読んでいく。するとそれまでの人生のあちらこちらで見知った葬儀なり埋葬なりの意味が、もう少し深いところから見直せるようになっていった。この本を書くのは、ぼくにとってはそのことが大きな収穫だった。いままでおぼろげにしか頭の中で区別のつかなかった世界四大宗教のありようとか、その違いなども少しわかったような気もした。そして最終的には自分の死について、トレーナーである編集者が方向づけてくれたように、たどたどしくはあるが、じっくり本気で考え、それをまとめていくという、ぼくにとってはかなり真剣な執筆状況に入れたのである。

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